私たちはどう生きるか
~昭和史から学ぶ非戦と平和~


2024.5.28
「第10話 話せばわかる 5.15事件の意味」

陸軍では上海事変後の停戦協定が面白くない。そして1932年2月9日には井上準之助前大蔵大臣射殺、3月5日三井合名理事長団琢磨射殺、という血盟団事件が起こります。血盟団とは政治家を狙った今でいうテロ組織で、首謀者たちが国家主義者たちを信奉していたテロの走りです。

そして陸軍士官と海軍士官ら青年将校を民間右翼が扇動する構図で5.15事件が起こります。
犬養毅首相は暗殺されますが、「君の側の奸」グループ、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、侍従長鈴木貫太郎も狙われましたが逃げました。犬養毅が撃たれる直前に「話せばわかる」と言ったのは有名な話です。

首謀者井上昭は当初、陸軍との大規模の共同決起を呼びかけたのですが、時期尚早と一蹴され、結局若手軍人だけで実行する事となります。実行者たちは後に、「犬養首相に個人的感情はないが、政治家、財閥に対するクーデター」と発言しました。

この5.15事件は結果的にその後に大きく影響します。
なぜならこの時に、国民は軍を批判するどころか実行犯を助けてほしいという運動まで起きる事になります。海軍では「国家を正そうとする志ある者たち」などと美談として、物語のようにして世論に訴えたりしました。生活の困窮が政治家や財閥に対する不満となって、よく考えずにテロを追認する形になってしまいます。

いつの時代も社会の変化に付いていけない国民も政治家もいます。しかし、テロや暴力はいけません。
こうした不満を利用する者たちに利用されず、根気よく正しい方法を見極めなければなりません。間違った世論が力を持つと、のちに取り返しのつかない事になります。

5.15事件の裁判では世論も背景に軽い判決となります。4人だけ懲役刑、他は無罪で、しかもその後恩赦が連発され、ほとんどすぐに出所出来ました。この軽い刑罰がのちの2.26事件の布石となります。一国の総理大臣を殺害しておいて、きちんと裁く事も出来なくなっていました。そして西園寺も牧野も引退してしまいます。
しかし鈴木貫太郎だけは「軍人が政治的に口を出してきている。満州の独立に反対した犬養を殺し、策動家の手先になっている」と発言しさらに軍部からにらまれます。この人本当に強い人ですね。のちの2.26事件につながります。

この事件はのちの2.26事件に比べて歴史的に地味な扱われ方なのですが実は影響は大きく、その後も暗殺、暗殺未遂事件は続き政治家は震えあがり、政治政党、政友会は崩壊し、この後、斎藤実海軍大将が総理大臣になり、政党政治は終わってしまいます。本当の軍人中心の恐怖の時代、暴力の時代が始まります。
結局国民も、不景気から抜け出す方法として、平和を選ばなかったわけです。

2024.5.19
「第9話 キャッチーなスローガンとラジオVS新聞」

アメリカのウォール街の大暴落による不況が続き、国民の総意も無駄使い禁止。ロンドンの軍職条約も、軍備に使えるお金はないと国民は支持していました。メディアも支持していました。海軍軍人の整理を見て、陸軍も危機感を募らせていました。

ところが、のちに外相となる政友党の国会議員で南満州鉄道副総裁でもあった松岡洋祐(ようすけ)は、「第三回太平洋問題調査会」という会議で「満蒙(まんもう/満州と内モンゴル地方)は日本の生命線である」と発言します。
これに満州で関東軍の暴走を支持した強硬派の代議士森恪(もりつとむ)も、「日露戦争で使った20億の国費と、10万人の戦死者を出してまでして、帝政ロシアを撃退して手に入れた満州は日本の生命線」だと議会でぶちかまします。
このスローガンは強力で、美味しい話に飛びつきたくなる人々を虜にしました。
キャッチーなスローガンというのは、正論より一気に盛り上がってしまうものなのです。不況に苦しむ国民感情と一致してしまい、日本の運命を決定づけます。

蒋介石の国家統一に勢いがあり、反日排日の機運は高まりこのままでは満州は危ない。不法行為でも手に入れたものを取られるのは認めがたい。不況と軍縮によって、国も国民も元気がなくなってきた。そこで政治の無策、貧困は許しがたい。ええい面倒くさい、いっその事と、強引に国家を立て直そうとする人々に支援者が増えていく、となってしまいます。

松岡が言ったのは違う意味だったとも言われます。当時日本は不況の真っただ中で、日本国内優先で満州どころではなくなっていました。満鉄副総裁でもあったわけですから、「満州を見捨てないで!満鉄の経営を回復させ満州経済を発展させて日本に還元させれば、景気にプラスになる」という意味だったとする説です。
この人、のちに外相として国連脱退の演説は有名ですが、日本にとって重大な発言や行動を起こします。本意は違った説はありますが、結果的に暴走日本を加速させてしまいます。
とにかく「満蒙は生命線」は流行語となり、1930年頃までは武力は良くないと冷静だった新聞もこれに飛びつき、国民を煽るようになります。陸軍も勇ましい方へなびく国民にしめたと思ったに違いありません。

満州事変ではメディアでも転機となる出来事が起きます。
新聞が初めて関東軍擁護に回ったのです。それまでは厳しい論調だったのがひっくり返りました。それは何故か。
実は新しいメディアのラジオの時代に入り、ラジオ人気が進みラジオが関東軍の進撃を流し、国民がどんどんラジオに夢中になっていった影響で、新聞も危機感を感じ、負けじと読者を煽っていったという結果でした。

1931年9月20日の朝日新聞と東京日日新聞(今の毎日新聞)は爆発的な部数となります。関東軍擁護にまわった日です。この後関東軍は快進撃を続け、マスコミも、ここまでの経緯などを知りつつ、手のひらを返したように中国の攻撃による正当防衛、聖戦であると報じ、国民も熱狂していきます。
苦境にあえいでいた国民に成功体験を植え付け、太平洋戦争の道筋をつけてしまう事になるのです。
当時の毎日新聞の記者が、のちに自嘲的に「関東軍主催、毎日新聞後援、満州戦争」と語っているほどです。
永井荷風の日記により、新聞社と陸軍との癒着も明らかにされます。子どもたちの間では戦争ごっこが流行ります

新聞が軍部の宣伝機関と化す事がどれほど恐ろしい事になるか。日本人は知る事になります。
国民が最大のメディアの監視員である事を絶対に忘れてはいけません。

2024.5.9
「第8話 満州事変 柳条湖事件~上海事変」

1931年9月関東軍は南満州鉄道の奉天北郊の柳条湖付近の線路を爆破を決行し「柳条湖事件」が勃発し、これが世に言う「満州事変」の発端となり、中国との本格的な戦争に発展していきます。関東軍は中国軍の犯行と発表する事で満州拡大の口実としました。

なんで戦争でも事件でもなく「事変」なのかは、 「事件」よりも規模が大きいけれど宣戦布告なしの戦争状態や、小規模・短期間の国家間紛争の場合は「事変」と言われるそうです。満州事変は柳条湖事件が発端ですが、終わりとする時期は諸説あるようです。

ところが中国も問題です。日本が満州を進撃してきたのに、同じ国民党の南京の蒋介石の政府と広東の汪兆銘(おうちょうめい)政府が内紛を繰り返し、どんどん勢力を伸ばしてきた毛沢東の共産党とも内紛をしていて、満州を無視している状態でした。
日本はこれを好機とばかり、関東軍は各地の軍閥を撃破し、チチハル、錦州、ハルピンも占領し、満州の各都市を次々と拡大していきました。

こうなると中国の民衆、特に若者が怒りだし反日運動が各地で起こります。彼らは内紛を続ける中国政府には頼れないと批判し、学生を中心にデモが広がり全国都市へ波及していき、中国政府もようやく目を覚まします。そして中国政府はようやく国際連盟に提訴します。

大きいのは、比較的静観していたアメリカが、ここにきてついに動きます。パリ不戦条約違反だと強硬になります。アメリカは世界への影響力の大きい大国ですから、世界世論も変わっていきます。結局、日本は太平洋戦争へ突入する時も最後はアメリカとの交渉次第だったわけで、アメリカはやはり最大のキーマンだったのです。

関東軍参謀は、満州国は中国人が自分たちの為に作ったと見せかける為に、まず満州に親日政権を樹立し皇帝を置きます。清朝最後の皇帝の末裔溥儀です。一応は独立国の形をした傀儡政権としておいて、その後占領するという計画を立てていました。自ら本国とは別の独立国家をっ作ったように見せかければ条約違反にはならないと主張します。このアイデアは日本中ですごく受け国民は納得してしまいます。

そして当然世界世論は大バッシング。いよいよ国際社会から孤立していきます。そこで国際社会の目を満州からそらす為、上海でまた自作自演の襲撃事件を画策します。上海は満州ではありません。中国の中心都市でありイギリスもアメリカも租界があって利害関係があるので、何か起これば満州から上海に関心が向く、と思ったからです。上海事変を交渉のカードに使い、満州は許してもらうつもりだったようです。日本人僧侶2人と信徒3人が中国抗日隊に襲われ、2人死亡3人重傷という事件が起こります。これが上海事変です。若槻内閣から変わった犬養内閣でした。

ただこの上海事変は、大規模な戦争に発展する事を恐れた昭和天皇との約束を交わした上海派遣軍の白川司令官が約束を守り、中国軍を撃退した後すみやかに停戦としました。東京の陸軍参謀本部はびっくり。「勝っているのに何で止めるんだ」と激高します。しかし国際連盟総会も日本を見直し、天皇はじめ良識派はホッとします。
ところが運命のいたずらと言うか、上海で行われた停戦調印式で、反日朝鮮人が投げた手りゅう弾によって白川司令官は殺害されてしまいます。昭和天皇は「昭和天皇独白録」で白川氏を称え、一周忌には歌まで捧げています。

1932年3月1日独立国家、満州国建国宣言が交付されます。世界のほとんどの国は承認しませんでした。日本は一貫して国際世論を軽視していました。現在の状態を判断する材料として、国際世論を聞くことは大事だと思います。

2024.2.27
「第7話 昭和天皇の側近 君側の奸(くんそくのかん)グループ」

昭和史によく出てくる言葉で「君側の奸」(くんそくのかん)というのがあります。これは、昭和天皇を取り巻く側近たちの集団の事を言います。昭和天皇が16歳で病弱だった大正天皇の仕事を引き継いだ為、創設された補佐役です。
天皇の主要な側近は、「元老」「内大臣」(ないだいじん)「侍従長」(じじゅうちょう)「侍従武官長」(じじゅうぶかんちょう)「宮内大臣」(くないだいじん)と呼ばれる人たちです。

「元老」は昭和に入ると西園寺公望(さいおんじきんもち)ただ一人になります。天皇のご意見番として、政府への発言力も強く、昭和前期の内閣総理大臣はほとんどこの人が決めました。
この人はあの戊辰戦争(ぼしん)にも参加した人で、九死に一生を得て生還した人です。住友財閥の後ろ盾を持っていて、同じ京都大学出身の原田熊雄という人が西園寺の情報係として、のちの首相となる近衛文麿(このえふみまろ)や、のちの内大臣(ないだいじん)となる木戸幸一ともつながっていました。

「内大臣」(ないだいじん)は、警察行政を掌握している「内務大臣」とは違います。ややこしいですが。
「内務大臣」は「内相」(ないしょう)とも呼ばれ、内閣の閣僚で政府の一員です。内大臣は「内府」(ないふ)とも呼ばれ、宮中にあって天皇の政治面での補佐役です。
昭和の初めは牧野伸顕(のぶあき)という人が務めました。この人は大久保利通の次男坊で、娘がのちに吉田茂の妻となるなど一部の人々が力を持つ大グループとなっていきます。この人は昭和10年ごろまで務め、その後、昭和天皇に影響力を持った木戸幸一と続きます。

「侍従長」(じじゅうちょう)も天皇を補佐する人ですが、ここはずっと海軍の大将か中将、「侍従武官長」(じじゅうぶかんちょう)は陸軍の大将か中将がなっていました。
「侍従武官長」は軍事面での補佐役、「内大臣」は政治面での補佐役とはっきりしていましたが、「侍従長」の役割ははっきりしません。「侍従長」は長い事、鈴木貫太郎という人が務めていましたので、仕事の内容ははっきりしないわりに天皇への影響力を持っていたようです。

さらに「宮内大臣」という人がいて、天皇だけでなく皇室全般を補佐する役割で政治や軍事にはかかわりませんが、この人も入れて「君側の奸」グループを作っていました。

この人たちが天皇を補佐しつつ、(天皇以上に)国政や軍事に多大な影響力を持ったのです。
「統帥権」で言うと軍人は大元帥天皇陛下直属の部下になっていましたから、軍事に関しては天皇直下の「侍従武官長」の力が強く、「侍従長」も止められない構造になっていました。
昭和の初めは「侍従武官長」の力は弱く、他の「元老」「内大臣」「侍従長」が中心でしたが、1933年本庄繁大将が侍従武官長になると大変な事が起きます。
要は発言力の強い人が務める事になると、その人に引っ張られる傾向はありました。

「君側の奸」グループは昭和天皇とともに、ずっと軍の暴走を憂慮していました。しかし、軍はだんだんと言う事を聞かなくなるばかりか、この「君側の奸」グループが天皇に間違ったことを吹き込んでいると考え激しく衝突する事となり、ついにはこのグループを標的にするようになります。

2024.2.18
「第6話 統帥権干犯(とうすいけんかんぱん) 犬養の汚点」

ここまでは主に陸軍の話です。ここからは海軍の話をします。

1929年10月24日ウォール街の株式大暴落に端を発した世界大恐慌の影響で世界は大不況となり、日本はますます厳しい状況となります。第一次世界大戦で疲弊した欧州列強はお金もなくなり世界は軍縮の流れになりました。そしてそんな中、1922年のワシントン海軍軍縮条約に続き、さらに踏み込んだ1930年1月ロンドン海軍軍縮会議が行われます。会議には日本から幣原喜重郎外相を中心に若槻礼次郎元首相ら、海軍から山本五十六も列席しました。

会議に行く前に、この位の条件で署名しようと話し合っていましたが、結局かなりそれより譲歩する形で条約に署名する流れとなり、代表団はその旨を日本に電報を打ちました。その電報を受けて、海軍の長老岡田啓介を中心として、署名反対派である軍令部(のちに「艦隊派」と呼ばれる)と、不満はあるが世界情勢から考え国際協調の観点から協定すべきという署名賛成派の海軍省(のちに「条約派」と呼ばれる)が揉めていました。

2週間の話し合いの結果、ぎりぎりの条件提示を出し、もしそれがだめでも最終決定は政府(海軍省を含む)に委ねると決定します。この結果を受けて、濱口雄幸(はまぐちおさち)首相は天皇に拝謁し、軍縮条約を結ぶ事を上奏しロンドンに電報を打ちます。
ところが、正式調印前日になって反対派が猛反対を唱えはじめ、海軍軍令部は海軍省に乗り込んで「同意しない」と言い出し大喧嘩となります。ややこしいですが、海軍省というのは政府の内閣の機関で、海軍軍令部は海軍自体の幹部組織です。当然ロンドンでは代表団が正式に署名します。

そしてこの問題は、直前の選挙で敗れた野党、政友会の犬養毅(いぬかいつよし)、鳩山一郎たちが「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」を持ち出すに至って大混乱になります。海軍の協調派と強硬派の対立を超えて、倒閣目的の与党と野党の政治的策謀も加わって大事件となってしまいます。

「統帥権(とうすいけん)」とは軍隊指揮権の事で、これは天皇が持っています。その天皇の下で、天皇を補佐する立場の軍令部も持っていて、軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相や海軍省でも誰も口出しは出来ない、という主張です。
「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」とは、軍令部に反して首相や海軍省が決めるのは、統帥権に違反しているという主張です。
この「統帥権」というのは実は当時は誰も気が付かなかったのに倒閣を目論んだ言いがかりで犬養や鳩山が突然言い出したので、軍令部は「そうだそうだ」と今まで承認していた人まで反対だと勢いづきます。

当時のメディアは条約調印を目指す政府側であり、軍縮は正しく、統帥権干犯はおかしいと批判していましたし、国民世論も世界恐慌にあって軍事費増強には反対でした。
結局海軍は、話し合いを続け「条約は(してしまったので)締結するが兵力は増強する」と結論付け、天皇に報告します。この事件は、海軍と政府の対立がピークに達し、後のクーデター計画まで発展する事になります。
どちらかというと今まで暴走してきたのは陸軍だったのですが、海軍まで政府と対立する事態に至りました。海軍の良識派は続々と海軍を去っていき、強硬派である艦隊派が幅を利かせるようになってしまいます。山本五十六はどっち派でも無かったようでしたが、この時に海軍を辞めようとしましたが「お前が辞めたら日本は大変な事になる」と引き留められます。

実は「統帥権」を考えだしたのは、のちの2.26事件の黒幕として登場する思想家で、しかもこの「統帥権干犯」の理屈はメチャクチャで、統帥権(軍隊指揮権)自体は天皇が持っているわけで、天皇が軍令部を抑える事は出来たのではと思えるのですが、先の「張作霖爆殺事件」の影響で、天皇も何も言えなくなっしまったのでしょう。

「統帥権干犯」という言葉は、その後軍部の暴走を許す材料に使われる事になり、その後の日本の方向性を決定づける重大事件でした。私はずっと、のちに5.15事件で倒れる犬養毅は素晴らしい政治家だと思ってきましたが、この汚点は取り返しのつかない大失策と言えます。

ロンドン海軍軍縮条約に尽力した濱口雄幸首相は、東京駅で統帥権干犯に憤った愛国主義者によって狙撃されます。その時は一命はとりとめますが、濱口内閣の打倒を狙った犬養毅や鳩山一郎らが統帥権干犯を掲げて濱口首相を激しく批判し、議会への出席を強く求めた結果、無理を押して議会に出席していた濱口は、辞職後亡くなってしまいます。
犬養、鳩山たちの政治利用は、その後自分たちの首を絞める事になり、政党政治の終わりを自ら招く結果となってしまいます。そしてこの濱口狙撃事件は、社会の自由主義、社会主義に対して、愛国主義、国家主義者などの民間右翼団体が軍部と結託し始めるキーポイントの事件となります。

城山三郎の歴史小説「男子の本懐」では、濱口雄幸首相と当時大蔵大臣であった井上準之助が主人公となっています。タイトルは濱口が「殺されることがあっても男子の本懐だ」と述べていたことが由来となっています。

2024.2.8
「第5話 吉田茂ってそういう人だったの?」

今回改めて昭和の歴史書を読み漁ると、今まで知らなかった事実を知る事になり、今まで描いていたイメージと違ってしまう人が出てきました。吉田茂もその一人です。

みなさんは吉田茂、知ってますよね。戦後日本の首相になる人です。
日本の終戦工作に従事し憲兵に逮捕された事から、平和主義者のイメージが強い人です。戦後の日本に貢献した人ですよね。

実はこの人、日本の昭和史に暗い影を落とす重要事項、「満州建国」に深いかかわりのある人だと分かりました。
現在の史料から、この人かなりの対中強硬派、しかも、かなり軍への影響も強かった事が分かってきました。

吉田茂は、外務省入省後は長い間中国で過ごし、満州の奉天の総領事にまでなります。
1927年田中義一内閣となると、この吉田総領事は、中国の内政に干渉して軍にもめ事をつぶすように発言しています。
田中義一内閣の外務次官だった森恪(もりつとむ)という人と結託した侵略擁護論者だったという事が分かってきました。
森恪と吉田茂のこの提案が、満州国建設のもととなったのです。
森恪という人は、この時鈴木貞一と知り合い、関東軍の河本大作参謀や石原莞爾陸大教官など、今後満州国の関東軍の歯止めのない暴走の責任者と深く関わっていきます。
吉田茂の後、入れ替わりに奉天の総領事となったのが、吉田と外務省の同期の林久治郎という人です。その直後に張作霖爆殺事件が起こりますが、林久次郎総領事の尽力で軍部の行動を批判し平和的解決に努め、張作霖爆殺事件の真実が分かる事となりました。
これがもし吉田茂だったらどうなっていたか、分からないと思います。

当時の吉田は「対満政策私見」という私論の中で、「満蒙を日本の植民地にする事で、すべての問題を解決し、日本民族は発展する」と主張しています。
この頃には日本政府の中にも、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)を始め、まだまだ国際協調路線を唱える政治家もいました。
そんな中でのこういう主張は、陸軍を勢いづかせる結果となり、陸軍の力を借りて出世したのではと疑ってしまいます。
吉田は、一時は陸軍も上回る強硬派で、元陸軍の田中義一首相でさえ手を焼いていたと言われています。

吉田茂は日本の終戦から昭和後期まで日本に尽力した功績はあります。誰しも間違った行動を取ってしまう事もあります。過去の自分の行いを反省し、やり直したかったのかもしれません。しかしそんな人でも、一時期は勢いのままに独善的な思想に囚われていたのです。
日本の暴走は「満州」から始まり、常に「満州」問題がありました。その意味において、吉田茂の行為は誠に罪深い行為と言わざるを得ません。