私たちはどう生きるか
~昭和史から学ぶ非戦と平和~


2024.1.30
「第4話 張作霖爆殺事件と昭和天皇」

いよいよ本題の昭和に入っていきます。
中国は内紛状態が続いていましたが、1926年には孫文の後継者と目される蒋介石を国民革命軍総司令として中国国民政府軍は北部を統一、揚子江南岸一帯も占領。快進撃を続けます。ようやく中国人も新しい中国を統一し、自分たちが自分たちの国を統治するという意思でまとまっていきました。

一方、中国の東北地方つまり満州地域には、旧勢力として君臨していた大軍閥、張作霖(ちょうさくりん)という人がいました。
張作霖と新勢力の蒋介石らの国民党軍が戦い始めると、関東軍は張作霖を応援します。満州を上手に支配する為に張作霖を利用しようとしたのです。
陸軍の後ろ盾を得て勢力を広げた張作霖は、北京まで進攻してゆきます。すると張作霖は関東軍の言う事を聞かなくなり、満州だけでなく中国全土の支配者になると言い出します。
蒋介石も反撃し今度は張作霖を追い詰めると、日本も再び出兵し中国の国民政府軍を抑え込みます。武力で中国大陸を抑え込めると自信を持つ関東軍に対して、昭和天皇も撤兵するよう命じます。しかしそれでも国民政府軍は戦い続け、勢いに乗る蒋介石の国民政府軍と関東軍が支援する満州の軍閥張作霖軍は北京と天津の間で激突、しかし張作霖は大敗して奉天まで逃げ帰ります。

ここまでくると関東軍は張作霖の利用価値はなくなったと暗殺を計画します。暗殺すれば各地で反乱が起き、それを口実に満州全土を一気に制圧してしまおうというものです。そして1928年6月4日、張作霖を列車ごと爆殺する、張作霖爆殺事件が起こります。日本政府も、日本の陸軍省も知らされず、関東軍の独断で実行されてしまいます。そして原因を現場で死んでいた中国人のせいにしますが、ずさんな計画はすぐにバレてしまいます。事前にこの中国人たちに金を渡し実行させ、他の中国人に殺させていたのです。

天皇は激怒し、田中義一首相に調査を命じます。しかし陸軍出身の田中義一は軍をかばい調査しません。それでも西園寺公望(さいおんじきんもち)という元老(天皇の側近)の指示の下、林久治郎総領事らが調査し数々の証拠も発見され、様々なルートで日本に真実が伝わります。
首謀者も共犯者も次々と判明します。東京の陸軍関係者も関与していた事まで分かります。
この事件は昭和天皇が自ら昭和時代を語った本「昭和天皇独自録」に詳しく記録されています。この本はこの張作霖爆殺事件から始まります。天皇自身も昭和の大動乱が始まったのがこの事件だったと思っていた証です。
しかし陸軍は、この事件をうやむやにしてしまおうと画策に動きます。

結局天皇は激怒し嘘ばかりついた田中を辞めさせてしまいます。その後田中義一は狭心症で亡くなります。はっきりしませんが自殺とも言われています。その事がきっかけで天皇はショックを受け責任を感じ、これ以降自分の意見を言う事を自重するようになります。ただこれは天皇の側近3人、西園寺と牧野伸顕(まきののぶあき)、鈴木貫太郎が決めた事でもあるのですが....

昭和史において張作霖事件が重要なのは、この事件の結果、天皇自身が「君臨すれども統治せず」が立憲君主国家の在り方であると認識を強くもってしまった事です。政治的立場としての天皇陛下を封印してしまう事は、もう一つの軍の指揮権を持つ大元帥陛下としての役目だけを陸軍に利用され振り回される事になり、その後の日本の大きなターニングポイントなりました。
そして、陸軍と昭和天皇の溝が深くなっていきます。

しかしこの時まではまだマスコミも、中国軍の発表も伝えて陸軍の陰謀を匂わせる報道もあり世論は疑いの目を持っていました。陸軍はこの時の失敗を学び、それ以降強力な情報操作を行います。

2024.1.22
「第3話 朝鮮併合と満州国と軍縮」

朝鮮(韓国)を正式に手に入れた日本は、初代統監として伊藤博文を送ります。陸軍出身の桂太郎内閣は、本当は朝鮮の独立を助けるどころか併合しようと画策していました。伊藤博文はそれに反対していたのですが、1909年に中国のハルビン駅で朝鮮人に暗殺されてしまいます。結果的に韓国民族運動との対立の標的となってしまいました。
日本政府はこれを口実に1910年に朝鮮(韓国)を併合してしまいます。この併合は一応国際的には認められ、終戦の1945年まで35年続きます。
日本の近代化、憲法制定と立憲政治に尽力した伊藤博文の最期は残念でした。彼を失ったのは、その後の日本にとって大きかったかもしれません。

中国では、日本が満州国建国に向けた準備をどんどん始めていきます。
日本は帝政ロシアに勝利後、満州の権益をロシアと勝手に取り決めてしまいます。当然、中国は怒ります。新しい中国を目指す指導者、孫文や蒋介石らが立ち上がります。こんな体たらくでは中国は食い物にされてしまう。
そして1911年、ひ弱な清を滅ぼそうと辛亥(しんがい)革命が起きます。1912年清国は滅び中華民国となります。
しかし中国には各地に「軍閥」という山賊の親分みたいなのがいて内乱となりますが、中華民国軍は次々と制圧していきます。

中国の民衆も目覚め日本への反感がどんどん強くなります。確かに日本が目覚めさせたとも言えます。
北京の学生らが中心となって日本へ抵抗し始め、それを弾圧する状態が続きます。中国の国家作りが完成する前から、中国中で大変な排日運動が起こります。
そして蒋介石の国民党軍はどんどん強くなり軍閥を次々破り、共産党軍も破り、北京に達します。日本が恐れていた中国の国家統一が完成に近づき、内戦も終結しつつありました。

一方欧州では1914年に第一次世界大戦となり、アジアどころではなくなります。日本には好都合です。強国の目が届かないうちに、日本はやりたい放題になっていきます。
第一次世界大戦は日本はほぼ関係なかったのですが、分け前欲しさに終戦頃に突然参加して、敗戦国ドイツの統治していたマーシャル諸島などの南洋諸島をそっくりもらってしまいます。

他方、帝政ロシアは1917年にロシア革命が起こり、ソビエト連邦となります。ロシアも新しい社会主義国家の国づくりが始まっていました。

第一次世界大戦後の世界の流れは「軍縮」です。世界大戦の反省から、現在の「国際連合」につながる「国際連盟」がうまれ、世界が協力して軍備を制限しましょう、となります。
そして戦勝国が中心となったワシントン海軍軍縮条約では、日本も含めた世界主要国が調印します。そして日本とイギリスの間で結ばれていた日英同盟が破棄されます。
この軍縮条約と日英同盟の破棄は、この後日本を孤立化に向かわせることになります。

日本国内では1927年若槻礼次郎首相、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相の対外融和路線内閣は、金融恐慌、不況と相まって、軟弱外交と非難され倒れます。
対外強硬派で退役陸軍大将の田中義一内閣へ変わります。内に鬱屈した国民感情を外へ向かって奮い立たせる結果を生みます。
田中内閣は、幣原外交の「満州は中国主権の一部」の原則を変え、「満州、蒙古と中国は別」と決めつけてしまいます。
また、中国のどこかで日本人が危なくなった場合は、いつでも出兵するとした本格的な軍国主義がスタートします。

勇ましい自国優先主義は、必ず経済の不況と政治の腐敗とが限界に達した時に、そのうっぷんを晴らすように出現してきます。今の政治状況と今後の日本経済の停滞と格差はとても心配です。

2024.1.18
「第2話 満州ってウクライナに似てる」

昭和史における最も重要な場所は、「満州国」です。この場所をめぐる攻防が、全ての要因です。「満州事変」で有名な、あの「満州」です。
そう、映画「ラストエンペラー」清国最後の皇帝「溥儀」を担ぎ上げた傀儡国家です。

「満州」という地名は聞いたことはあるけれど、一体どこ?何が起こったの?どうしてそれほどこだわったの?
皆さんはご存じですか。
それでは昭和の歴史を振り返る前に、まず「満州」について説明します。

まず「満州」の場所ですが、朝鮮半島の上に位置する中国の東北部地方の事で、黒竜江省、吉林省、遼寧省と内モンゴル自治区の東部地域の事です。
どちらかというと中国の中でも田舎であって、大都市である北京や上海は含んでいません。日本は何でそんな地域に固執したの?そこから始めたいと思います。

まず満州は、北部は帝政ロシアと国境を接していて、南部は朝鮮半島と接しています。日本は帝政ロシアを恐れていました。ロシアは中国とも揉めていましたし、アジアにおけるロシアの軍事力は脅威でした。
そこでロシアに対する国防の生命線として、どうしても満州を支配したかったのです。最大の目的はここにあります。

今の世界地図を見ても、北方領土も樺太も北海道にかなり近いですが、ウラジオストクとかナホトカなども北陸や関西と対岸です。韓国と北朝鮮以上に、海を間に挟み対面している面積が多いのはロシアです。沖縄地方以外は中国とはほとんど面していません。
海を挟んでいるので安心していますが、実は結構怖いです。今でも海外の人がよく日本を心配するのは、地図上ではロシアの隣国だと認識しているからです。

満州の最大の目的は帝政ロシアの脅威でしたが、手に入れると、どんどん別の目的も加わり、いよいよ手放せなくなります。
資源の乏しい日本は、石油、石炭、鉄、すず、亜鉛などの鉱物資源をアメリカや東南アジアからの輸入に頼っていました。
そうした資源の獲得、農産物なども含めた日本本土への資金供給基地として満州はとても魅力的だったのです。一番期待していた石油は無かったのですが.....
当時世界的な不況が背景にあり、満州をめぐり欧米の日本に対する経済制裁の影響はどんどん強まってゆき、国内の不況は大変なものでした。

そうした不況に対する国民の不満を解消させる為、国土の狭い日本の夢の新天地として、仕事場、生活の場としてどんどん人々を送り込み、事実上完全占領していきます。
特に家の次男、三男、仕事にあぶれた人、犯罪者の労働場所として無理やり送り込んだのです。そして昔からいた中国人やモンゴル人、朝鮮人の開拓地を強制的に奪ったりしました。
当然反満、抗日運動が起きますが、それを抑える為軍隊も増強していきます。
西欧諸国のアジア植民地化もありましたが、日本の侵略は圧倒的に国際公法を無視する暴力行為が多かったのです。

こうして分かると、これって現在のロシアの「ウクライナ侵攻」と似ていると思いませんか?
西欧が怖い。どんどん団結して強くなっていく。だったら、緩衝地帯として国境のウクライナを占領してしまおう。資源もあるし、工業も盛ん。
どんどん自国民を住まわせて既成事実を作っていき、何かあればロシア人が危ない、助けなきゃ、で武力蜂起のパターン。

日本が世界を敵に回す事になった原因は満州にあったと言っても過言ないかと思います。当時比較的仲の良かった英国などと協力して対処していれば、後の欧米の経済制裁が加速して追い詰められ手遅れになる事は無かったのではないか、と推測してしまいます。

2024.1.16
「第1話 まずは日清戦争、日露戦争」

日本はなぜあの愚かな戦争を始めてしまったのか
その鍵を握るのは、昭和に入った1928年から1945年までだと思います。
日本史における最も重要な局面であるこの間を話す前に、まず日清戦争、日露戦争時の背景からお伝えしたいと思います。
大きな時代の流れは、ここから始まったと言えるからです。

1894年(明治27年)の日清戦争、1904年(明治37年)の日露戦争。歴史で暗記しましたよね。でもこれ何が原因だったか覚えていますか?
日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日本と清(中国)、帝政ロシアの争いでした。
そもそも明治維新って何だったか。西欧諸国の脅しに驚き、攘夷、開国、富国強兵と、海外の列強に肩を並べるには軍事力を付けないとやられてしまうと目覚め、軍備を増強し始めた時代でした。
東南アジアの国々は、ほとんど西欧諸国の植民地になっていきました。

日本は島国で本土上陸を許しやすく、攻められた時にやられてしまう恐怖から、海の向こうの土地に防衛できる土地と軍隊が欲しかったのです。
そこで日本は、地理的に日本に最も近い朝鮮半島にまず目を付け軍隊を置き、さらに帝政ロシアへの防衛としてロシアとの国境の地、中国の東北地方である満州にも軍隊を置きたいと画策していました。
当時朝鮮は清(中国)の属国であり鎖国状態だったのですが、日本は朝鮮を清から切り離して開国させ近代化を目指すという名目で日清戦争を始めます。
結果日清戦争で勝利した日本は、一応朝鮮の独立を中国に認めさせ、日本に組み入れます。

ところが、日本は帝政ロシア、ドイツ、フランスの三国交渉に屈し、中国の一部で満州の最下部に位置し、朝鮮にも近い遼東半島を清に返還させられ、ロシアは満州地域を占領します。
ロシアはシベリアなど極寒の地が多いですから、不凍港としての遼東半島は喉から手が出るほど欲しかったのです。
日本は戦争までして手に入れたものをみすみす奪い返されます。それはロシアのみならず、ドイツやフランスが怖かったのです。
これが軍部にとっての屈辱となり、以降力づくの強硬方針になるきっかけを生みます。

しかし帝政ロシアはその後清へ侵攻し、遼東半島を奪い、満州の権益も奪いました。遼東半島の旅順(リョジュン)大連(ダイレン)という大きな不凍港を手に入れます。
さらにロシアは南下し、朝鮮へ勢力を広げてきました。日本は朝鮮と満州の支配権をめぐってロシアと対立。ロシアに対する脅威への自衛手段として日露戦争を起こしました。

結果日本は勝利し、ロシアに朝鮮を日本の支配下(まだこの時は保護国と言って、ゆるい植民地的な扱い)におくことを認めさせ、遼東半島、満州の権益も取り戻し、樺太も半分領土にします。
そして南満州鉄道の経営権、炭鉱の採掘権を手に入れます。
一番大きいのは、鉄道の安全を守る為と称し軍隊を置く権利を得た事です。初めは1万人くらいでしたが、最後は70万人まで増えてしまいます。
これ以後中国にいる日本の軍隊は「関東軍」と呼ばれるようになります。これは軍司令部を「関東州」である遼東半島の旅順、大連に置いた為で日本の関東地方とは関係ありません。
これが日本の満州国という傀儡国家建設が始まるきっかけとなります。

帝政ロシアは脅威でしたから、日露戦争までは理解できます。日本も植民地にならずに済みました。
しかしこの後、朝鮮や中国の独立を助け、一緒にロシアの脅威に対抗しよう、と出来なかったものでしょうか。

大国は植民地化をしてきたのだから日本だって良いじゃないか、という考えもあります。
しかし世界の流れは第一次世界大戦後くらいから帝国主義は国際的に非難の対象となりつつあり、欧州は軍縮の流れで、植民地から手を引きつつありました。
その隙にというか、入れ替わりに、日本は侵攻を始めていきます。世界では時代は変わりつつあったのに、日本は気が付いていなかった。
第一次世界大戦後の欧州ではドイツが脅威となりつつあり、西欧諸国もロシアもドイツに注意が向いてきて、アジアどころではなくなってきていたという事もあります。日露戦争も軍備などの点で、それほど本気では無かったのかもしれません。
そういう状況下で日本は自分たちが強い、行けるぞと過信してしまったわけです。

2024.1.11
戦争は誰も美化しない

そしてまた、昨年アニメも完結した「進撃の巨人」にも触発されました。
「人間はなぜ争いを止められないのか」
人間の正義や信念も人それぞれであり、愛もすぐに憎しみに姿を変え、立場や環境が変われば誰もが敵になりうる。
不気味な巨人と人間の戦いの本質は人間同士の戦いであり、敵の立場や気持ちが分かりながらも、それでも戦いを止める事は出来ない。
壁という拒絶で安寧の平和を得るとか、安楽死計画とか、ジェノサイドとか、ただ平和に暮らしたいという共通の願いですら、それを実現する為の方法となると、それぞれ形を変えてしまう。
愛も憎しみも含めた人間の本質の全てを表現した重厚長大なこの作品から、世界の歴史、戦争の歴史から目を背ける事は出来ないと思い知らされました。
この作品の根底に流れるものは、ナチスとユダヤ人との関係や、中国と香港や台湾、中国と日本、はたまたロシアとウクライナ、イスラエル人とパレスチナ人との関係にも読み取れます。
パレスチナの問題は、この作品のファイナルシーズンでアラブ人らしき人たちが登場し初めて興味を持ち、イスラエルとハマスの戦争が始まってからその紛争の歴史を調べました。

そして昨年末には、「窓際のトットちゃん」で話題になったユニセフ親善大使になられて40年になる黒柳徹子さんの「いつも見ている番組で戦争の話をする事は大事」という言葉にも感銘を受けました。

戦争に「聖戦」も「正義」もありません。「聖戦」も「正義」も国家利益の思想的粉飾に過ぎません。
一方で、日本が植民地とした国がその後独立したのも事実です。しかし日本の戦争を「植民地解放」の聖戦として正当化する主張は受け入れられません。
そうした侵略目的の免罪符とする考えが、歴史に対して正実であろうはずもありません。
戦争は誰も美化しないという厳しさで、歴史的事実のみを知り、考え、平和についてつなげていく思考こそが、最も大切だと思います。

そこで昨年私は、敬愛する小説家でもあり歴史家でもある、司馬遼太郎氏、松本清張氏、半藤一利氏、そして歴史学者で東京大学教授の加藤陽子氏、ジャーナリストの池上彰氏。主にこの5名の本を数十冊読みました。
司馬氏、松本氏、半藤氏は自身も戦争体験者でもあります。そして数限りない一級史料、文献を参考にしながらも、多数の生き証人に直接会い話を聞き、客観的に事実を正確に書物として残しています。
歴史家としてのみならず、私がその人間性にも全幅の信頼を置けると判断した方々です。
また、それぞれ書籍が書かれた年も違いますし、新たな史料も日々発見されて更新されています。5名の方の書籍の中でも、年月や数字などは違っていたりします。私は、数字はそれほど重要ではなく、何があったのかが重要だと思います。

今回読破してみて、私も初めて知ったことも多く、出来れば多くの人にも知って欲しいと思いました。
それぞれ極秘資料からなる独自のものも多数ありましたが、今回は入門編として、主に手に入れやすい一級「史実」に沿った形で、主要な歴史の流れと全体像がつかめるように、分かりやすくお伝えしたいと思います。

とまあ硬く重い話になりましたが、歴史には事実だけでもドラマとして面白い部分がたくさんあります。
登場人物がいますので群像劇としても楽しめるかと思います。
日本には歴女という歴史好きの女性も多いらしいですし、出来るだけ分かりやすく丁寧にお伝えしようと思いますので、ご興味のある方は、よろしければお付き合いください。

2024.1.9
許そう しかし忘れない

「許そう。しかし忘れない」

ミャンマーとタイの国境にあるクウェー川の橋のそばの展示館にある記念碑に書かれた言葉です。
映画「戦場にかける橋」の舞台となったこの場所で、現地人3万人英国人捕虜1万人日本人1000人が犠牲になりました。
この地は、太平洋戦争中の1942年春、日本軍がビルマ(ミャンマー)占領後、ビルマへの補給ルートとして鉄道を着工し、1943年5月に完成した場所です。

また昨年、ボルネオ島のサンダカンという所では、太平洋戦争の日本軍人と生き延びたオーストラリア兵の遺族が合同で慰霊祭を行ったという記事を読みました。
サンダカンは、占領した日本軍が、捕虜に過酷な労働と移動を強い、多くの犠牲者を出した「サンダカン死の行進」の場所です。
捕虜収容所には約2500人のオーストラリア軍、イギリス軍の捕虜が収容されていて、生き残ったのは6人だけでした。
オーストラリア兵を父に持つ参加者は、「家族間の和解が国同士の和解につながる。それが、悲惨な戦争を防ぐことにつながる」
「サンダカンの悲劇に関わる人々は、相互の癒しの為に日本人とともに慰霊を行う必要がある」と語りました。
日本軍の司令官の孫は、「司令官の孫として申し訳ないと思っている。それを共有する場があり、遺族の悲しみを聞いていく事で(自分の)心が整理されていった」と語っていました。


私は長い間ずっと考えていました。「日本はなぜ戦争を始めたのか」
そして今、日本の若者のみならず大人たちまでもが、日本が太平洋戦争終戦まで韓国を事実上占領していた事や、多くのアメリカ人が原爆投下を支持している理由を知らない。
中々答えが出ない中でようやく気が付きました。
戦後の日本の歴史教育は、「教えなさすぎた」と。私たちはあまりにも何も知らない。

戦争の歴史を正確に記述し、責任の所在を明確にし、子や孫に語り継いでいこうとする欧米と日本では相当な違いがあります。
歴史を学ぶことの意味は、あやまちを繰り返さない、将来へ生かす事。そこにそのすべてがあると思います。
歴史の過ちを知り理解する事で、謙虚になれ、冷静な判断を持てる事になると思います。

昨年見た宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」にも触発されました。
この作品の時代設定がなぜ太平洋戦争中なのか。
母を失った11歳の少年真人(まひと)が生ている時代の日本は、他国の資源や領土、人々を自分たちの生存や発展の為に収奪する国家です。
その負の部分を無視し、夢のようなファンタジーにすり替えて熱狂し身を委ねた人々によって、覆い隠された負は限りなく増大し、現実は崩壊しようとしていました。
真人の「自分の中の負の部分にどう向き合うか」「新しい母とこれからの自分の人生をどう受け入れるか」という自身の問題が、
「私たち日本人が過去の負の歴史とどう向き合うのか」「新たな歴史をどう作っていくのか」という日本人全体の問題とがリンクして私たちに突きつけられる。
自分自身の負の部分を認め向き合わなければ、本当の生き方は見つけられないし、他者との関係も築けない。
宮崎監督が問うた「私たち日本人としての生き方」は、まさに宮崎駿の遺書に思えました。