私たちはどう生きるか
~昭和史から学ぶ非戦と平和~


2024.7.10
「第12話 日本ジャーナリズムにおける気骨の男②

その頃の新聞はこぞって満州、内モンゴルの植民地化を後押ししていきます。しかし、そんな日本でも勇気ある異をとなえた人がいました。石橋湛山です。

湛山はいち早く「民主主義」を提唱した人です。また朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義、植民地主義に対抗する平和的な加工貿易立国論である「小日本主義」を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど、リベラルな言論人として知られています。
湛山は戦後政治家に転身し総理大臣にもなりましたが、戦前は東洋経済新報社記者、後に社長として言論界で活躍した気骨のジャーナリストでした。湛山は自由が失われていく時代にあって一貫して自由に基づく持論を主張した気骨の人です。
軍部の独走とその政治干渉を批判し、あくまで政党主体の議会政治を擁護し続け、軍部からの圧迫にも屈しませんでした。

湛山は、日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒めています。同誌は実名を書くことが困難だった多くの人たちにも匿名での論説の場を提供します。常に冷静な分析に基づき読者を啓蒙する内容だった為、同誌は政府・内務省から常に監視対象になり活動を大きく制限されました。

終戦直後の1945年(昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする見解を述べ、小日本主義の復活を唱え落ち込んだ人々の心を鼓舞しました。彼は、貿易の自由さえあれば領土縮小の不利益は克服しうるとし、産業復興計画を立てそれを実行せよと説きました。

そして戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでは今度はGHQとも対立します。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品などの経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めていました。このあまりの巨額の負担を下げるように要求しました。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなりました。
この時期に戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から「心臓大臣」と呼ばれますが、アメリカには嫌われGHQにより衆議院議員の職を追放されます。この公職追放はライバルである吉田茂が関わっていたという説もあります。

今振り返っても言論人石橋湛山の主張は確固とした哲学と歴史観があり、結果としてその主張には未来を先取りしたような見識が見られます。
湛山は大国日本主義を棄て、植民地の朝鮮、台湾、樺太を放棄し、満州に持つ日本の権益もすべて放棄せよと説きました。あの時代の日本人には到底受け入れられない主張です。
しかしその後の歴史を見ると、大国日本主義の日本は満州権益に端を発する日中戦争につまずき、米英との戦争に突入し、敗戦で植民地をすべて失い、戦後小国日本となって復活しました。日本は結果として湛山の見通した道を歩んだことになります。湛山は過去の欧米列強の帝国主義による植民地経営が、国民全般にとっては採算がとれるようなものでないことを具体的に論証しています。これからの世界は植民地の全廃に進むであろうし、すべての植民地が独立して新しい国家をつくるのが世界史の流れであると、あの時代に断言したのです。

 また歴史を振り返ると、戦前日独伊三国同盟の締結が日本の進路を決定的に誤らせたとの歴史評価はほぼ定着していますが、湛山は当時国内で高まる自由主義排撃の動きや独伊両国への礼賛気運を戒める言論を展開しています。独伊が極端な全体主義を固守するならば、その全体主義は必然的に崩壊すると湛山は断言しました。湛山は真の自由主義の理念を示し、自由主義に対する世間の誤謬を正そうとしました。日本は対独伊接近策ではなく、親英米主義、特に対英関係改善により現状を打開すべきであると湛山は主張したのです。

石橋湛山は戦前言論人の信念を貫き時代を超える識見を示しています。

2024.7.9
「第12話 日本ジャーナリズムにおける気骨の男①

日本のジャーナリズムの批判ばかりになってしまっていますが、その歴史に名を残す気骨の男が日本にもいました。その一人が「桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)」です。悠々の主張した反権力、反軍的な言論は、単なる批判に止まらず当時の日本の国土防衛の脆弱性を正確に指摘したことで知られています。

1933年7月から8月にかけて、東京を中心に1府4県にわたって大規模な軍事演習が実施されました。永井荷風の日記には銀座が暗黒の街になったとあるくらい、東京中が真っ暗になるほどの大演習だったようです。
すると信濃毎日新聞という新聞の論説委員が8月11日の社説で「関東防空大演習を嗤(わら)う」という論評を載せました。
その内容というのが、
「東京の空に敵機を迎え撃つという事は、日本軍の敗北そのものであり、将来あってはならぬこと」
「と同時に私たちは将来かかる実戦のあり得ない事を、従って架空の演習を行っても実際にはさほど役に立たない事を想像するものである」
と痛烈に批判したものでした。
日本の上空に爆撃機が来て爆弾を落とすような事態になってしまったら、日本はもう勝てるわけがないじゃないか、というこの論説の内容は今考えれば当たり前のことで、事実その後の1945年のB29による日本本土大空襲がそれを証明しています。
悠々は批判だけでなく制空権、防空戦の重要性なども論じていて、日本の将来を最も心配していた一人だとも言えます。
日本の敗戦の原因に上げられるのが、戦艦による制海権にこだわり、欧米の戦略である戦闘機による制空権に遅れをとった事が言われています。

しかし陸軍は激怒しました。以前からこの信濃毎日新聞は反軍新聞と見なされていたから特にです。
信濃毎日新聞の5.15事件のコラムでは、犬養の「話せばわかる」という最期の言葉に、「話せばわかると諭した態度は立派だが、遺憾ながら今や軍人どもが既に狂人となっている事を見間違えた。話しても話の分かるわけがない」とまで書いていたからです。

陸軍は執拗な抗議を繰り返し、大々的な不買運動するぞと脅迫し、ついに桐生は退職に追い込まれてしまいます。
ほとんどの新聞もラジオも映画までもが軍部に従っているこの時に、この堂々とした批判精神の素晴らしさは、時代を経て大いに称賛されてしかるべきかと思います。日本のジャーナリズム史を飾る大いなる論説を書き続けた「信濃毎日新聞」に「桐生悠々」という男がいた事は記憶に留めておいて欲しいと思います。

そしてこの後、新聞紙法に加えてさらに出版法も改正され、徹底した言論統制が敷かれ当局が新聞、雑誌、ラジオなどをしっかり統制するようになります。
現代においても、メディアの内容に政府がチェックを入れる事態が起きたら、メディアが政府に忖度して批判記事を書かなくなったら、それはまずい方向に向かっている、と思った方が良いです。

2024.6.26
「第11話 リットン調査団 国際連盟脱退」

日本軍の撤退を国連に求めた中国の提訴により、1932年3月国際連盟理事国の代表団であるイギリス人のリットン卿を団長とした「リットン調査団」(米、英、仏、伊の委員)が満州を調査する為、まず日本に来日しました。調査は3月から7月くらいまで続きました。
その調査団がまだ東京にいる時、関東軍は1932年3月1日満州国の独立宣言をします。分かりにくいのですが、この時に独立を宣言させたのは関東軍で、日本政府は9月になって独立国家として承認する事になります。
世界中はこの宣言を無視し、日本だけが認めた独立国家として存在する事になります。世界の日本を見る敵意は高まる一方となります。

1932年10月にはリットン調査団の調査報告が発表がされます。
その内容は、柳条湖事件は日本軍の自衛手段とは認められない、日本の侵略行為と断定します。その後の満州国の成立の動きは政治的な動きであるとし、中国人の純真な独立運動ではなく日本軍が建設したものであるとします。その上で満州を自治体と見なし、満州国から日本軍の撤退を勧告しました。
しかし撤退後は、特別行政機関設立の為日本と中国で話し合いをしなさい、とも裁定しました。そして日本の満州における権益を認める妥協的な結論も提示して、日本の国連脱退を引き留めようともする内容となりました。かなり大甘な内容とも言えます。これ以上の世界情勢の悪化を防ぐためのバランスを取った妥協の産物とも言えます。
何となく今の国連の限界を暗示しているかのような裁定です。

リットン調査団の報告を受けた昭和天皇は「これを拒否して国連を脱退すればいずれ西欧諸国との戦争になる。その覚悟と準備は出来ているのか」と国連に従うようにと内大臣にしきりに勧告しています。
時の政府斉藤実首相と元老西園寺公望らほとんどの閣僚も、欧米を敵に回せば経済制裁を含む最悪の処置があるだろうと要求を受ける態度でしたが、内田康哉外相、荒木貞夫陸相は即時国連脱退を主張します。マスコミが煽ったり、外務省白鳥敏夫情報部長が脱退推進派を煽った結果、内閣の中にも孤立やむなしとする者も出て、軍のクーデターを恐れ何もできず結局国連脱退となります。

そして1933年2月24日有名な松岡洋祐外相の演説があり日本は国連から脱退してしまいます。帰国した松岡はマスコミや国民に英雄と持ち上げられ、国民は「日本に対する諸外国の圧力」と理解してしまいます。当の松岡の本心は実は違っていたなどの説もあります。帰国を延ばしてスイス、アメリカで時間を潰していたらしいのですが、このマスコミの英雄報道に気を良くしてしまい勇んで帰国したのは間違いないようです。

ちなみに当時の文藝春秋だけは「日本外交の失敗、松岡が英雄とは何たることだ」と批判しました。しかし、政府の責任を糾弾しなければならない新聞を始め他のマスコミはこれをしませんでした。当時の毎日新聞も朝日新聞もです。その後はアメリカやイギリスの動静など世界の情報も報じられなくなります。日本は孤立化を深め、まるで明治維新の排外主義的な「攘夷」思想の再現となります。マスメディアの存在というのは本当に大きいのです。