私たちはどう生きるか
~昭和史から学ぶ非戦と平和~


2024.8.4
「番外 女たちの太平洋戦争②」

ご紹介した「女たちの太平洋戦争」は途中から、兵士として戦地での実体験を語る人や一般の外国人など、女性だけでなく男性の手記も掲載されるようになります。そうなってくると、「あまりに自虐趣味」など批判的な手記も掲載されるようになります。

まさかとは思いましたが私たちもこのコラムの影響で、パターンの販売停止要求などメールやネット上で仕事に絡めた妨害を受け、この話題がセンシティブである事を実感しました。

批判的なご意見には共通のキーワードが出てきます。「戦争だから仕方がない」「戦時ではどこの国もやっている」「民族としての誇りを汚す」「日本人の戦死は無駄だったのか」という言葉です。

ここで改めて私見を述べさせて頂きます。
「誇り」って一体何でしょうか。「女たちの太平洋戦争」に手記を投稿されている方々は誇りを持っていないのでしょうか。
私はありのままの戦争体験を投稿されている人々こそ、日本人として誇り高き人たちだと思います。
「民族」の前に、まず世界の人々から素晴らしい「人間」であると思われてこそ、誇り高い民族、日本人と呼べるのではないでしょうか。
「誇り」とは、全てを認め、知ろうとする強さこそが、「誇り」高き態度だと思います。知りたくない事実は見ない、と言う態度で日本人の「誇り」は保たれているのでしょうか。日本は立派な経済大国ですし、内向きでなく、もうひとつ上のというか、世界から尊敬される、もっと大きな態度を取れる国民だと思っています。

また戦地で無念の戦死をした日本人だけでなく、戦後シベリアに抑留された世界中の人たちも、満州などから戻ってくる際に大変な思いをされた方々とも同様に、太平洋戦争に関わって亡くなられた外国人たち全ての人々の死が無駄にならないために、出来る限り起きた事実を全て知り、語り継ぐ事は重要です。

私は戦後生まれですが、祖父と叔父を太平洋戦争で亡くしています。
戦争は始めるよりも終える事の方が難しい。それは昔も今も変わりません。
それは「亡くなった人たちの死は無駄だったのか」の大合唱になり、戦争を始めた責任者たちがその言葉に背くことが出来なくなるからです。みんなの気持ちが「もうじゅうぶん。これ以上悲しみを増やさないで」とならないと止める事は難しいです。

ですが日本人は太平洋戦争で「真実を知らされなかった」という事がもたらした大変な結末を知っているはずです。どこの国民よりも、その時に起きた真実に貪欲であるべきだと思っています。いかなる理由によっても、知らなくて良い事実などあるはずがありません。

私は日本全国の主要な戦争博物館、平和祈念館をまわりましたが、圧倒的に日本が、あるいは日本人が受けた戦争の被害を伝えていました。もちろん全ての場所で、全ての人たちに哀悼の意を捧げ、平和の継続を誓ってきました。これも重要な事ですがあくまで戦争の一側面であって、海外の日本軍の加害に関しての展示はあまりありませんし、史料も少ないです。
そして残念ながら、少ない情報の中でも、海外での日本軍の蛮行は特に驚かされますし、同じ「戦争による死」としても兵士の戦死以上に、弔いの気持ちが強くなる事ばかりです。偉そうに言っている私も、当時の日本に生まれていればどうしているか分かりません。

お前の方が悪い、どっちが悪い、どれくらい悪い、どっちが先にやった、こっちの方が被害が大きい、とかどうでもいいと思います。
とにかく事実を聞くこと知ることとこそ、亡くなられた方々に私たちが出来る唯一の鎮魂であり、慰霊であると思っています。無念の思いで亡くなられた名も無き人々の存在に気付き心で弔う事で救われる魂もあるかと思います。

私はどうしても「戦争だから仕方がない」「戦時ではどこの国でもやっている」「民族としての誇りを汚す」「日本人の戦死は無駄だったのか」という言葉の中に、次の戦争の種が隠れているように思えてなりません。

あくまでこれも1つの私見ですから、これを機会にみなさんも考えて頂ければと幸いです。

2024.8.3
「番外 女たちの太平洋戦争」

先日の「帰還者たちの記憶ミュージアム」の会場の図書コーナーで、「女たちの太平洋戦争」という本を見つけた。
この本は、太平洋戦争当時15歳前後だった女性を対象に、世界中から寄せられた太平洋戦争時の実名の体験記を1991年にまとめたものである。
この本を読んで思ったのは、女性の方がしがらみがない分、洗脳が解けるのも早く、ものごとを冷静に判断できる素養があるという事。もともと女性の方が抑圧を好まず、精神の自由度が高い特性があると思う。
ざっと読ませて頂いた中から、抜粋して短くまとめたものをご紹介します。ご興味を持たれた方はお近くの図書館で検索してみて下さい。

「何も疑わず日の丸を振った」 神奈川県鎌倉市 今野さなへ
私がいま、これから生きていく若い人、特に女性に伝えたい事は、戦争なんていつの間にか起きて人間の生活を変質させてしまうものだ、という事だ。
だから、政治とか、経済とか、社会の動きにいつも敏感にしていないと、いけないということだ。
政治家や学校の先生とか、評論家などの発言、また新聞・雑誌の報道に必ずしも真実が見られないということが多いから、自分で考え、判断する事が大事だということだ。
何も疑わずに戦争中を過ごして、敗戦になってはじめて、様々な戦争の裏側を知らされた、というのが、偽らない私の体験だ。
あのような体験は、もうあってはならないと筆をとった。

「敗戦で一転、民主主義唱え」 福島県二本松市 鈴木美枝子
軍国教育に徹した校長は、敗戦後数か月も経たないうちに、率先して民主主義を唱え始めました。
「アメリカは国民に主権があるのだ」と朝礼で教えるようになり、「民主主義」という言葉の連発です。
頭の回転の悪い私たちはよく意味が分からず「大人は信用できない」と思うようになりました。そんな学校に行く気がせず、友人と野山を歩き、野草を探して一日の糧としました。
間もなく校長は、県の偉い人となって学校から去りました。

「教育のこわさつくづく」 和歌山県那賀郡 梅田矢す代
6年生の時「お前たちは何のために勉強しているのか」と先生に聞かれました。正解は「天皇陛下のため」だったのです。
今になって教育の怖さをつくづく思います。私も自分の頭で、ものごとを考えるようになったのは昭和30年代になってからです。

「むごい・・・でも本当の歴史知りたい」 香川県観音寺市 安藤和子
同じ戦争中であっても前線、銃後を問わず過酷なまでに「生」と闘った人もいる一方、ただ流されるままに生き、戦後も「仕方なかった。悪いのは戦争を始めた人だ」という人もいると思います。手記を書かれている人は特殊な体験をした人たちばかりでしょうか。
私はそういうことを小・中・高を通じてほとんど教わった覚えがありません。今の子供たちを見ていると、そういう関係の本さえ読もうとしません。むしろ何かによって意図的に隠されているのではないか?とも思います。
海部首相は東南アジア訪問で「日本の過去の侵略について歴史教育する」と明言されていますが、文部省はもとより教育現場におられる人たちはどう思っておられるのか、知りたいと思います。

歴史教育もっと充実させて 鳥取県岩美郡 浜口一恵
「女たちの太平洋戦争」は、私の年代では一つひとつ「そうだった。その通りだ」と胸を打ち、どれもうなずける内容だ。「むごい・・・でも本当の歴史を知りたい」の手記のように「学校で歴史的事実は教えられなかった」という言葉は、元教員の経験上、その通りだと思う。
海部首相の言う、アジア諸国に与えた「悲しみ苦しみ」ってどんなこと?といまの子供も、若い教師もけげんな顔をするだろう。
きちんとした歴史を伝えないと、いまの青少年は、戦争の痛み、歴史への反省のない利己主義、経済至上主義の感覚のみで成長し、世界から孤立した存在になるだろう。
「女たちの太平洋戦争」も素晴らしい教材の一つだ。教員時代の「原爆の子」「アンネの日記」を思い出す。

「軍人に罵声-情けない日本人実感」 長崎県南松浦郡 鏡福子
敗戦の日から幾日か過ぎたある日の事、記憶では両国駅のホームで電車待ちをしていた将校さんに向かって、「お前らのせいで日本は負けたんだ」「どの面下げて、そんな平気な顔してやがる」「おまえらは、一体、何をしてたんだ」と罵声を浴びせる人たち。中には物を投げつけたりした人もいました。
軍人方は一言も返さず、みんなうなだれていました。
この光景を見て、私は驚き、憤り、情けなく悲しくなって体の震える思いでした。日本人とは何とお粗末な、軽薄な、嫌な人間だろうかと初めて思い知りました。
軍人たちは日本に勝算の無い事を、一般人よりも少しはご存じであったろうと思います。しかし、「負けそうだから、戦争は止めよう」とあの段階で、一将校が言ってみたところで、どうなるものでもなかったのです。敗戦までは防戦していた仲間なのです。そんな人たちにあんな言葉を浴びせるとは。
その後、日本には軍隊というものが無くなりました。自らの命を懸して国を、国民を守らなければならない任務の人がいなくなり、私の心は安らかでいられます。

「テレメンタリーに涙 若い世代に語り継ごう」 大阪府枚方市 角田玲子
朝日でレビで放送された「テレメンタリー 女たちの太平洋戦争」は、当時の生々しい記憶がよみがえり、感動と涙の30分でした。
一番ショックだったのは、戦争が、いまの教育の場で若い世代に語り継がれていないこと、若い人たちが戦争に対して知識の浅い事などでした。敗戦という事実に触れてこそ、教育が生きるのです。金銭的な償いだけでは戦争は終わらないのです。
戦いでいつも傷つくのは民間人が圧倒的です。未来ある子どもたちの為にも、戦争に対する知識を深く植え付けて下さい。そうしてこそ真の平和の尊さが伝わるのです。
「テレメンタリー」を企画された皆様方の努力に敬意を表します。

「疎開先でひたすら勤労奉仕-もっと勉強したかった」 和歌山県新宮市 金田恵子
小学校は国民学校と名前が変わり、上級生は男子はゲートルを脚に巻いて軍事教練。女子はなぎなたの練習や手旗信号の課外授業がありました。
皇国日本のこと、「天皇は現人神(あらびとがみ)」「八紘一宇」などと教わり、御真影の前では最敬礼です。卒業すると男子は「陛下の赤子」として学徒動員、神風特攻隊として、出陣し、戦死した人もいました。
戦況が激しくなり、私は母や妹と離れて太田村(現和歌山県那智郡勝浦町)に疎開し、県立太田実業学校に転校しました。ここでも教科書は二の次でした。
終戦と同時に、教科書の○○ページの××行目から△△行目までは読めないようにと、墨で棒を引く事になりました。それまで遮二無二教えられてきたのは何だったのか。国の為に、勝つためにひもじい思いをして働いたのは何だったのか。英語が敵国語として学べなかったことも、最大の悔いとして残りました。

「過去や亡霊にしないで」 大阪府堺市 水本恵子
私は小さい頃から両親に戦争反対と聞かされて育ち、戦争のむごたらしさは知っているつもりでした。しかし、本当に知っているのでなかったのだと「女たちの太平洋戦争」を読んで感じました。
私たちの現実とはつながらない夢の世界のような感じで、戦争を頭で理解する事は出来ても、肌で納得する事はありませんでした。
学校でも「戦争はいけないよ」とは教わりますが、受験勉強のために、戦争の事を学ぶ時間が、学校から消えます。
私たちは、もっと直接に戦争ということに触れるべきだと思います。そうでなければ、太平洋戦争を、過去という、亡霊の国のものだと思い込んでしまいかねません。「女たちの太平洋戦争」は、戦争を実感として教えてくれました。

2024.8.2
「第14話 天皇機関説 国体明徴」

日本の権力者は昔から天皇を現人神(あらびとがみ)に祭り上げ、その大元帥としての地位を利用して軍事国家への道を走ってきたという歴史があります。都合の悪い事を言う人たちを黙らせて、国民も一つにさせるには「皇道精神」という一体感は都合の良い御旗となりました。
当時天皇の役割は①天皇陛下として国政を見たり外交を見る②大元帥陛下として陸海軍の指揮官という2つの権力を持っていました。軍にとっては①の方の天皇の発言が気になっていました。 軍にとって①は邪魔な役割なので、今までも天皇を騙したりして苦労してきました。そこで、策略が始まります。

1935年元陸軍中将の菊池武夫という議員が、「東京大学教授で憲法学者でもある美濃部達吉議員が書いた本がけしからん、これは国体を破壊する思想である、発売禁止にすべし」と言い出します。美濃部達吉とは、のちの東京都知事となるあの美濃部亮吉のお父さんです。
美濃部の学説は既に憲法学の主流になっていましたが、美濃部は以前から軍部に反する意見を唱えていて、これを狙い撃ちにしたものでした。これをきっかけに大論争になります。菊池の裏には蓑田胸喜という人がいて、この人は普段から陸軍から金をもらって反陸軍の学者を攻撃している人でした。蓑田が美濃部を標的にしようとして、この学説は「不敬」に当たると菊池に吹き込み、菊池が動いたものでした。
しかしこの内実を当時の「文藝春秋」が暴いていますが、西園寺公望、牧野伸顕、斎藤実、高橋是清、鈴木貫太郎ら、いわゆる宮中の天皇側近たちのグループに対して、強硬路線グループが彼らをやっつける為に起こした言論クーデターでした。

天皇機関説は大変難しい内容なのですが、要は天皇の権力についての定義で主に、
①帝国憲法(明治憲法)の天皇の絶対的権威は認めるけれど、天皇はそれを使わないで国家の上に乗った機関であるべき
②天皇が国家を統治することも、陸海軍を統治指揮することも認めるが、議会や内閣の権限も認め、自由に国家を運営する方向にしてゆこう(美濃部説)
③天皇の権威や地位はそんなもんじゃない、絶大であり、天皇が国家を運営していくべき
となります。

②を唱えた美濃部に対して、強硬路線グループは③を唱える思想家北一輝の説を利用して糾弾していきました。その結果、美濃部追放の声が強まり問題は大きくなり、③の説が力を持ち、天皇を利用し「君側の奸」や内閣や議会の声を無視し、天皇の名のもとにすべて決められていきます。

のちの「昭和天皇独白録」で昭和天皇自身は、②で良いと考えていた、と終始、政府側、穏健派に近い考えであったと告白しています。「国家統治権の主体は国、私は神でなく普通の人間だ 神とは迷惑」と言っています。

そして議会や言論界では「国体明徴」(こくたいめいちょう)という問題も起きます。これは日本は一体どういう国か、という事に対して大論争に発展します。
岡田首相は美濃部に同情的だったのですが論争は倒閣運動ともなってきてついには天皇機関説反対を声明。「万世一系の天皇が国を統治する神国と昔から決まっている。今さら議論などする必要はない」「天皇機関説などと言って天皇の力を弱めてはダメ、国体の本義を誤らせるもの」と決めてしまいます。

この問題は思想・学問の問題であり、言論の自由の問題であったはずです。しかし、もはや宗教や神話としか言いようのない天皇神聖説が主流となり、現人神として天皇の神聖に憧れる事が日本の正義となりました。美濃部は不敬罪で告発され、議員を辞職します。「君側の奸」はガタガタになります。ただ鈴木貫太郎、斎藤実はこらえ、高橋是清も軍部に逆らい予算を減らしたりします。そしてこの人たちが2.26事件で狙われる事になります。

2024.7.10
「第13話 日本ジャーナリズムにおける気骨の男②」

その頃の新聞はこぞって満州、内モンゴルの植民地化を後押ししていきます。しかし、そんな日本でも勇気ある異をとなえた人がいました。石橋湛山です。

湛山はいち早く「民主主義」を提唱した人です。また朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義、植民地主義に対抗する平和的な加工貿易立国論である「小日本主義」を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど、リベラルな言論人として知られています。
湛山は戦後政治家に転身し総理大臣にもなりましたが、戦前は東洋経済新報社記者、後に社長として言論界で活躍した気骨のジャーナリストでした。湛山は自由が失われていく時代にあって一貫して自由に基づく持論を主張した気骨の人です。
軍部の独走とその政治干渉を批判し、あくまで政党主体の議会政治を擁護し続け、軍部からの圧迫にも屈しませんでした。

湛山は、日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒めています。同誌は実名を書くことが困難だった多くの人たちにも匿名での論説の場を提供します。常に冷静な分析に基づき読者を啓蒙する内容だった為、同誌は政府・内務省から常に監視対象になり活動を大きく制限されました。

終戦直後の1945年(昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする見解を述べ、小日本主義の復活を唱え落ち込んだ人々の心を鼓舞しました。彼は、貿易の自由さえあれば領土縮小の不利益は克服しうるとし、産業復興計画を立てそれを実行せよと説きました。

そして戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでは今度はGHQとも対立します。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品などの経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めていました。このあまりの巨額の負担を下げるように要求しました。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなりました。
この時期に戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から「心臓大臣」と呼ばれますが、アメリカには嫌われGHQにより衆議院議員の職を追放されます。この公職追放はライバルである吉田茂が関わっていたという説もあります。

今振り返っても言論人石橋湛山の主張は確固とした哲学と歴史観があり、結果としてその主張には未来を先取りしたような見識が見られます。
湛山は大国日本主義を棄て、植民地の朝鮮、台湾、樺太を放棄し、満州に持つ日本の権益もすべて放棄せよと説きました。あの時代の日本人には到底受け入れられない主張です。
しかしその後の歴史を見ると、大国日本主義の日本は満州権益に端を発する日中戦争につまずき、米英との戦争に突入し、敗戦で植民地をすべて失い、戦後小国日本となって復活しました。日本は結果として湛山の見通した道を歩んだことになります。湛山は過去の欧米列強の帝国主義による植民地経営が、国民全般にとっては採算がとれるようなものでないことを具体的に論証しています。これからの世界は植民地の全廃に進むであろうし、すべての植民地が独立して新しい国家をつくるのが世界史の流れであると、あの時代に断言したのです。

 また歴史を振り返ると、戦前日独伊三国同盟の締結が日本の進路を決定的に誤らせたとの歴史評価はほぼ定着していますが、湛山は当時国内で高まる自由主義排撃の動きや独伊両国への礼賛気運を戒める言論を展開しています。独伊が極端な全体主義を固守するならば、その全体主義は必然的に崩壊すると湛山は断言しました。湛山は真の自由主義の理念を示し、自由主義に対する世間の誤謬を正そうとしました。日本は対独伊接近策ではなく、親英米主義、特に対英関係改善により現状を打開すべきであると湛山は主張したのです。

石橋湛山は戦前言論人の信念を貫き時代を超える識見を示しています。

2024.7.9
「第12話 日本ジャーナリズムにおける気骨の男①」

日本のジャーナリズムの批判ばかりになってしまっていますが、その歴史に名を残す気骨の男が日本にもいました。その一人が「桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)」です。悠々の主張した反権力、反軍的な言論は、単なる批判に止まらず当時の日本の国土防衛の脆弱性を正確に指摘したことで知られています。

1933年7月から8月にかけて、東京を中心に1府4県にわたって大規模な軍事演習が実施されました。永井荷風の日記には銀座が暗黒の街になったとあるくらい、東京中が真っ暗になるほどの大演習だったようです。
すると信濃毎日新聞という新聞の論説委員が8月11日の社説で「関東防空大演習を嗤(わら)う」という論評を載せました。
その内容というのが、
「東京の空に敵機を迎え撃つという事は、日本軍の敗北そのものであり、将来あってはならぬこと」
「と同時に私たちは将来かかる実戦のあり得ない事を、従って架空の演習を行っても実際にはさほど役に立たない事を想像するものである」
と痛烈に批判したものでした。
日本の上空に爆撃機が来て爆弾を落とすような事態になってしまったら、日本はもう勝てるわけがないじゃないか、というこの論説の内容は今考えれば当たり前のことで、事実その後の1945年のB29による日本本土大空襲がそれを証明しています。
悠々は批判だけでなく制空権、防空戦の重要性なども論じていて、日本の将来を最も心配していた一人だとも言えます。
日本の敗戦の原因に上げられるのが、戦艦による制海権にこだわり、欧米の戦略である戦闘機による制空権に遅れをとった事が言われています。

しかし陸軍は激怒しました。以前からこの信濃毎日新聞は反軍新聞と見なされていたから特にです。
信濃毎日新聞の5.15事件のコラムでは、犬養の「話せばわかる」という最期の言葉に、「話せばわかると諭した態度は立派だが、遺憾ながら今や軍人どもが既に狂人となっている事を見間違えた。話しても話の分かるわけがない」とまで書いていたからです。

陸軍は執拗な抗議を繰り返し、大々的な不買運動するぞと脅迫し、ついに桐生は退職に追い込まれてしまいます。
ほとんどの新聞もラジオも映画までもが軍部に従っているこの時に、この堂々とした批判精神の素晴らしさは、時代を経て大いに称賛されてしかるべきかと思います。日本のジャーナリズム史を飾る大いなる論説を書き続けた「信濃毎日新聞」に「桐生悠々」という男がいた事は記憶に留めておいて欲しいと思います。

そしてこの後、新聞紙法に加えてさらに出版法も改正され、徹底した言論統制が敷かれ当局が新聞、雑誌、ラジオなどをしっかり統制するようになります。
現代においても、メディアの内容に政府がチェックを入れる事態が起きたら、メディアが政府に忖度して批判記事を書かなくなったら、それはまずい方向に向かっている、と思った方が良いです。

2024.6.26
「第11話 リットン調査団 国際連盟脱退」

日本軍の撤退を国連に求めた中国の提訴により、1932年3月国際連盟理事国の代表団であるイギリス人のリットン卿を団長とした「リットン調査団」(米、英、仏、伊の委員)が満州を調査する為、まず日本に来日しました。調査は3月から7月くらいまで続きました。
その調査団がまだ東京にいる時、関東軍は1932年3月1日満州国の独立宣言をします。分かりにくいのですが、この時に独立を宣言させたのは関東軍で、日本政府は9月になって独立国家として承認する事になります。
世界中はこの宣言を無視し、日本だけが認めた独立国家として存在する事になります。世界の日本を見る敵意は高まる一方となります。

1932年10月にはリットン調査団の調査報告が発表がされます。
その内容は、柳条湖事件は日本軍の自衛手段とは認められない、日本の侵略行為と断定します。その後の満州国の成立の動きは政治的な動きであるとし、中国人の純真な独立運動ではなく日本軍が建設したものであるとします。その上で満州を自治体と見なし、満州国から日本軍の撤退を勧告しました。
しかし撤退後は、特別行政機関設立の為日本と中国で話し合いをしなさい、とも裁定しました。そして日本の満州における権益を認める妥協的な結論も提示して、日本の国連脱退を引き留めようともする内容となりました。かなり大甘な内容とも言えます。これ以上の世界情勢の悪化を防ぐためのバランスを取った妥協の産物とも言えます。
何となく今の国連の限界を暗示しているかのような裁定です。

リットン調査団の報告を受けた昭和天皇は「これを拒否して国連を脱退すればいずれ西欧諸国との戦争になる。その覚悟と準備は出来ているのか」と国連に従うようにと内大臣にしきりに勧告しています。
時の政府斉藤実首相と元老西園寺公望らほとんどの閣僚も、欧米を敵に回せば経済制裁を含む最悪の処置があるだろうと要求を受ける態度でしたが、内田康哉外相、荒木貞夫陸相は即時国連脱退を主張します。マスコミが煽ったり、外務省白鳥敏夫情報部長が脱退推進派を煽った結果、内閣の中にも孤立やむなしとする者も出て、軍のクーデターを恐れ何もできず結局国連脱退となります。

そして1933年2月24日有名な松岡洋祐外相の演説があり日本は国連から脱退してしまいます。帰国した松岡はマスコミや国民に英雄と持ち上げられ、国民は「日本に対する諸外国の圧力」と理解してしまいます。当の松岡の本心は実は違っていたなどの説もあります。帰国を延ばしてスイス、アメリカで時間を潰していたらしいのですが、このマスコミの英雄報道に気を良くしてしまい勇んで帰国したのは間違いないようです。

ちなみに当時の文藝春秋だけは「日本外交の失敗、松岡が英雄とは何たることだ」と批判しました。しかし、政府の責任を糾弾しなければならない新聞を始め他のマスコミはこれをしませんでした。当時の毎日新聞も朝日新聞もです。その後はアメリカやイギリスの動静など世界の情報も報じられなくなります。日本は孤立化を深め、まるで明治維新の排外主義的な「攘夷」思想の再現となります。マスメディアの存在というのは本当に大きいのです。